「私と神戸新聞会館(特別編)~ともに70年、創業の地にこだわり」

旧神戸新聞会館と地下の秀味街(現Mキッチン)で70年前に創業、ともに歩み阪神・淡路大震災に遭遇。再建後もミント神戸に戻った3人の経営者に、創業のころや70年の歩みを聞いた。

 

地下3階で創業、業界の先駆けに/現場主義貫く

石原アメニテック会長 石原 勉さん(81)

創業したのは、勉さんの父琢郎さんで、当初は石原商会。1956年5月、完成直後の旧神戸新聞会館地下3階、ボイラーの石炭庫の横13平方㍍のスペースに事務所を置いた。

旧神戸新聞会館の清掃業だったが、営繕も担当、ドアノブの修繕、溶接、大工仕事など、ビルの維持管理に関する仕事はなんでもこなした。当時まだビルメンテナンス業は珍しく、業界の先駆けとなった。

創業者の琢郎さんは、県立神戸一中(現神戸高校)、京都帝国大学をへて教員になったが、義父が経営する神戸の造船所を託され、経営者に転進。しかし造船不況に見舞われ倒産、新たな業種としてビルメンテナンス業に着目したという。会社は急成長、琢郎さんは業界団体の会長も務めた。

勉さんは、琢郎さんの三男で、同志社大学機械工学の在学中からアルバイトで従事。琢郎さんが体調を崩し白羽の矢が立ち、中退して1966年に入社。現場第一主義を貫き、現業に精通してきた。ダストシュートにたばこの吸い殻が捨てられ、火事になりかけ、ダストシュートの中に入りこんで回収したことも。「新聞社に掃除にいくと一升瓶がゴロゴロ。灰皿いっぱいに吸い殻。インキで手は真っ黒になった」

震災で旧神戸新聞会館は全壊。神戸大学病院の一角を借り、神戸駅前にビルも確保し事業を継続。長期契約のビル3割が中途解約や中断の憂き目に遭ったが、持ち場替えなどで社員の雇用を守ることに注力した。病院では社員が本来業務を超え医療に欠かせない水運びの手伝いも行った。そして待ちに待った2006年ミント神戸完成。真っ先に戻る決断をしてグランドオープン1カ月前に入居。「ここは創業の地。どうしてもこのビル入居にこだわった」。会館時代の電話番号は手放さず、入居後震災前の番号に戻した。

 


(写真)「創業の地にこだわった」と語る石原勉会長

 

 

店とともに60年、震災にも「必ず戻る」

炭火焼鶏 芙美 北川 智子さん(74)

公務員だった父の勧めで、母の妹が1957年に創業したのが店の始まり。北川さんも14歳のころから学校帰りに店を手伝い、25歳

で店を継いだ。

震災で店内は食器が散乱、足の踏み場もなかったが、焼き鳥のタレつぼだけは奇跡的に無事。「この場所で」と背中を押された。震災直後、当座の資金を心配した旧神戸新聞会館の担当者が「敷金を返す」と言ったが、北川さんは「必ず戻る」と受け取らず。休業中は近くに屋台を出し、食べ物だけでなくさまざまな物を売った。幸い秀味街の躯体は無事。水道や電気は会館と共用していたため、地上に空調機器と緊急用発電機、地下に電気室などを新設し、約1年5カ月後に営業再開。ビル工事のため2004年2月から再び休業中には、西宮市の臨時職員として働き、オープンを待った。

店とともに60年間歩んだ北川さん。「つらくても常連の顔が浮かび、つながりを絶ちたくなかった」。

 


(写真)北川 智子さん

 

 

師匠の暖簾、夫婦・親子で守る

うなぎ丸髙 岡田 照美さん(89)

うなぎの専門店丸髙は田中髙志さんが創業、弟子入りしてみっちりしごかれたのが先代経営者岡田英信さん(2024年死去)。岡田さんは秘伝のタレを受け継いで、灘区で山信という屋号でうなぎの卸し業を始めた。しかし震災で店は全壊、4時間後に救出された。幸い秘伝のたれは無事、井戸水も湧いた。テントで被災者にうなぎをふるまい喜ぶ顔に励まされた。

そんなころ、田中さんの跡を継いだ丸髙経営者が英信さんに店を継いでほしいと声をかけた。英信さんは自らの屋号ではなく師匠の残した丸髙でミント神戸に戻ってきた。「おいしい、安いという知名度のある丸髙の味とのれんを残したいと思った」と英信さんを支えた妻の照美さんはいう。

今は照美さんが灘の店、娘の智恵さん(61)が4代目として丸髙を切り盛り。「海外にも常連がいて来日した時は寄ってくれる」と照美さんは顔をほころばす。

 


(写真) 岡田 照美さん

 

(完)