神戸新聞会館は、新聞社の本社でもあり、コンピューター化する前は、職人技の新聞制作が行われ、熱気があふれていました。広く見学者を受け入れました。また約60店の大小のテナントが入居していました。しかし1995年1月17日、阪神・淡路大震災でビルは全壊。苦難の道を乗り越え、2006年10月4日、神戸新聞会館はミント神戸としてグランドオープンしました。

【職人技の新聞作り】


(写真)棚に並んだ活字を1字ずつ原稿通りに集める作業で「小組」と呼んだ(1958年)神戸新聞社提供

 

 

活気、騒音が充満、驚異的な短時間作業

熊谷 信哉(須磨区・78歳)

昭和46年4月に神戸新聞社に入社、編集記者の見習いを始めた。仕事を覚えるのに精いっぱいで正直言って新聞会館そのものへの思い出はあまりないが、当時、会館の中で繰り広げられていた新聞づくりの現場は鮮明に覚えている。

2階の編集局には怖いデスクが陣取り、出稿されたわら半紙の原稿用紙(当時は1行15字)をにらみ、筆にたっぷりインクをふくませ不要部分を片っぱしから抹消していく。周囲はたちまち、くしゃくしゃな紙の山。仕上がった原稿用紙をつまみ「ざっと40行や」などと推量してパンチャーに手渡していた。編集ではないが、社説などを書く論説委員の中には ミミズの這ったような超クセ字を書く方がおられ、それを読み取る専門の社員が配置されていた。校閲研修の時に目にした光景である。

職人の世界は活字を組み上げるお隣の制作局の方がより顕著だったようだ。20㍍四方前後と思われる作業スペースは青く分厚いエプロンを下げた社員であふれ返り、活気、騒音が充満。突如、部屋の一角から大声が上がる。「おーい、朱やん、〇の字をくれ」と言っているようだった。朱やんというのは活字を選び出す職種の社員。私には聞き取れなかったが、どうも正しい活字の大きさや字体を指定しているようだった。はるか遠くで「よっしゃあ」と返事があり、ピンセットで目的の活字が引っ張り出され、瞬時に誤った活字と入れ替えられる。あの騒擾の中でどうやって正しい字を聞き取るのか、今もって不思議だ。

新聞はこうした職人技を結集し、短時間に編集し、インクの香りのする紙面が刷り上がった。もう半世紀も前の話である。

 

 

新聞部で会社見学、編集力を大幅アップ

釣 禎之(赤穂市・78歳)

昭和37年7月のこと。当時、私は中学校3年生だった。所属していた新聞部の顧問の引率で同級生の部員6人と神戸新聞社見学のため、神戸新聞会館を訪れた。

神戸新聞社では、まず新聞社についての説明があった。その後、新聞ができる順序で案内していただいた。編集局と制作局で紙面製作が行われ、次に文選工場で1分間に40~50字の活字が拾われ、小組される。小組されたものが円圧機で新聞1㌻分の紙型が作られる。その後、鉛型は地下の印刷工場で輪転機に取り付けられ、印刷が始まる。1時間に4㌻の新聞が20万部印刷できると聞いてとても驚いた。

編集局の方からも記事を書く上で大切な5W1Hのことや記事の書き方などを指導いただいたことは、後の私たちの学校新聞の編集にとても役立った。

その後、私たちは、夏休み号の編集に取り掛かり、何とか一学期の終業式に発行することができた。その時の新聞は今も大切に保存している。神戸新聞社見学と夏休み号の編集を頑張ったことは、今でも忘れられない思い出となっている。

しかし、とても残念に思ったのは、平成7年1月に発生した阪神・淡路大震災で神戸新聞会館が崩れ落ちている姿を見たとき。大変ショックを受け、私たちの良き思い出も崩れ去ったように感じたことだった。

 

 

 

小学生で新聞製作見学、活字を拾う速さに驚く

藤村 久夫(明石市・80歳)

私は昭和20年生まれで小学6年生の時に、社会見学で行った記憶があります。新聞作成までの工程を順番に見て行くのですが、まず職人さんが原稿を見ながらすごい速さで活字を拾って組み込んでいた。次に仮刷りして誤植のチェックをし、OKになったら本刷りですが、大きいロール紙がすごい速さで回転して刷られていた。子供の頃の体験は、今も記憶に残っていて良いものですね。

その後就職したのが春日野道にある会社で、仕事の帰りに地下の秀味街で飲んだり、屋上のビアガーデンにもよく行ったものです。会館の北側の壁面に富士山の絵と山一証券の文字が書いてあって、旅行などから帰ってきてそれが見えると、ああ神戸に帰ってきたんだなと感じたものです。

 

活字で版を組む仕事、新聞を愛し続けた父

小西 桂子(須磨区・59歳)

私の父太田丈治郎(91)は、神戸新聞社で長きに渡り働いていました。モノクロの新聞社の写真を見つけた時、幼い頃、母と一緒に父の会社に行ったのを懐かしく思い出しました。父は「植字課」という所で働いていました。原稿に基づき活字を拾い、行間、余白を整えながら版を組み上げる仕事です。今ではデジタルによる組版が主流で、時代の変化を感じます。

父は新聞作りのため、夜勤の勤務が多く毎日帰りも遅く、小さい頃は子どもと過ごす時間もあまりありませんでした。たまに娘たちと一緒に食事ができた時は「パパ、また来てね」と私に言われていたようです。文章の段落や漢字の使い方、文章の並べ方には厳しく、小学校の時に私が作文を書いてみせると、「段落の次は1字下げる」など様々なチェックをしていたのを思い出します。

新聞社で働いていた父も今年92歳。定年退職後もずっと「神戸新聞」を愛読し、毎朝全紙面を見ていました。溺愛している孫が、高校総体で表彰され神戸新聞に掲載された時にはとても喜んで、私の家に電話がかかってきました。

神戸新聞会館70周年おめでとうございます。70周年を機会に私も幼き日のことを懐かしく思い出すことができました。益々のご活躍、ご発展をお祈りします。

 

 

(写真)組みあがった「小組」を集め写真なども配置して1ページ分の原板を作る。「大組」と呼んだ(1961年)神戸新聞社提供

 

【職場】

余震におびえながら、会社の書類搬出

山本 瑞枝(加古川市・50代)

就職先がテナント入居していました。朝の換気でベランダの戸を開けると賑やかになる前の三ノ宮駅前の様子や街の動き始めた音が飛び込んできました。地下の秀味街を通ってプランタンやそごうへ。

20代の私は三宮を満喫。しかし2年ほどで震災が。市外の自宅は被害がなく1月に余震が心配ななか工事足場から書類を運びだしました。数カ月後、自宅近くの空き店舗兼住宅に理容店が開業。長い髪を一つに束ねた見覚えのある店主。地下の理容室で見かけた人でした。当時私は結婚式前で和装襟足そりを、主人もこの店が閉店するまで通っていました。店の前を通ると震災前の館内が脳裏に蘇り、職場の方々や何気ない日々を懐かしく思い出していました。

 

 

(写真)震災直後の旧神戸新聞会館。全壊と判定され、その日のうちに撤退が決まった(1995年)神戸新聞社提供

 

(写真)ガラス窓はほとんど割れて落下した(1995年)神戸新聞社提供

 

 

喫茶店バイトで領収書の失敗談

M・M(東灘区・53歳)

思い出は高校時代に1階にあった喫茶店でのアルバイトです。映画の開始前・終了後は満席の忙しさ、朝は新聞社の方々がモーニングで来店する姿など様々な思い出がありますが、1番は新聞社の社会部か写真部(だったかと)へ出前の際に、領収書を間違えて二重線で書いた上に代金を訂正して渡した自身に「領収書はこのような事はしてはいけない」と世間知らずだった高校生の私に教えて頂いた事です。

今、思えば顔から火が出るほど恥ずかしいですが、勉強になったと感謝です。あの時の社員さん、お元気でいらっしゃるといいですね。

 

入社試験、役員面接で夢絶たれる

児島 理恵(西区・64歳)

神戸新聞会館は無骨な建物だった。昭和の時代の雷親父があぐらをかいているような横長の重厚な建物で、神戸新聞社というロゴがその存在感に更に威厳を付加していた。今から40年前当時大学生だった私は憧れと畏怖の思いでそごう前の歩道橋からこの建物を見つめたものである。

大学生だった私は、神戸新聞社の編集局の採用試験を受けた。1次の学科試験をパスし2次では編集局の試験を受けた。しかし3次の重役面接で私の夢は途絶えた。

あれから40年、新聞記者とは無縁の職業につき今年完全退職となる。これで良かったのか?いやこれで良かったのだ。かつての憧れの建物は消えた。憧憬も苦渋も悔恨も昇華(消化)され現在の私がある。

 

青春の1ページ、同僚とランチ楽しむ

太田 由美子(西区・71歳)

新聞会館と言えば富士山の壁画です。子供の頃何処へ行ってもJRであの富士山が見えるとあ~神戸に帰って来たとホッとする気持ちになったものでした。

1973年その会館に新卒で就職が決まったのです。女性5名すぐに仲良くなりました。5階の事務所の更衣室の隙間から昼休みお弁当を食べながら映画を覗き見していました。週1で1階の喫茶でランチを食べるのが楽しみでした。そんなみんなも今どうしているのでしょう?この紙面を通して会えたらいいなあ!

今でもミント神戸じゃあなく私達の間では古いなと言いながら新聞会館で話しが通じます。私の青春の1ページです。70周年おめでとうございます。

 

(5)へ続く